2025年6月13日【文部科学委員会】学習指導要領について参考人に質問しました。
※赤字はブログ掲載にあたっての補足です
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委員長 次に、大石あきこ君。
大石 れいわ新選組、大石あきこです。
参考人の皆様、今日はありがとうございます。どの参考人の皆様からも、現場での教育実践をお伺いすることができて、本当によかったです。子供たちが障害の有無とか、また国籍とか母国語に関係なく共に学んでいく、愛情を持って接していくという実践をされていることを拝聴できまして、感銘を受けました。本当にありがとうございます。
私は、本日は、学習指導要領についてお伺いしたく、大森参考人と澤田参考人にお伺いしたいと思います。
学習指導要領については、現状、もう既に参考人の方々からも話されましたけれども、どうも罰ゲームとして機能しているだろうと思っています。それで、これは何とかならないのかという観点からお伺いしたいんですけれども、大森参考人と澤田参考人にお伺いしたいのですが、なぜお伺いするかというと、裁量や柔軟性のことを語られているんです、おっしゃられているんですね。
私は、これはすごく大事だと思っていて、この裁量を奪われて、罰ゲームというか、場合によっては処分だったり、事細かにこれを守らなきゃ絶対駄目だみたいにやられていることによって起きる現場でのデメリットというのが、致命的なものがあるんだと思っています。
まず、そういった、現場での、学習指導要領がもう絶対なんだと、裁量を奪われているかのように機能しているということの具体的なデメリットとか不合理というのを聞かせていただけますか。
大森参考人 御質問ありがとうございます。
まず、裁量の問題については、問題の大きさに対する整理が、まだ教育学では十分にできていないところもあるかもしれません。
まず、裁量の主体の問題がございまして、一般的に教育界で裁量という言葉を使うと、それはたくさんあった方がいいよねということになりがちなんですけれども、裁量の主体が誰なのかということが一つポイントになってまいります。
例えば、地方分権の時代ですから、国との関係で、教育委員会や学校に裁量権があるというのは、その関係の中では地方分権を前進させるということになると思いますし、だけれども、子供の視点から見た場合、子供自身の裁量というのは子供自身が持っていないと、それ以外の人が持っていても、子供にとっては裁量性が狭くなるというところがあるんですね。
ですから、裁量についての議論は、その局面局面で、どこにどれだけの裁量があるべきかということを、歴史的な事実も整理しながら考えることが大事なんですけれども、やはり、教育界全体としては、この間、子供の裁量は少ないことが続いておりますので、そういったことを増やしていくことについては合意も随分でき始めていますので、その辺りが大事なところかなというふうに考えております。
澤田参考人 御質問ありがとうございます。
現場への縛りということを考えるときに注意したいなと思っているのは、学習指導要領そのものも、やはり大事な部分はあると思うんですけれども、つまり、拘束性というものがありますので、学界では、もうそろそろ、一旦、手引的な、戦後の、もう少し柔軟な運用がそれこそ可能になるような部分を、考え直してもいいのではないかという議論も行われているぐらいですので。
しかし、一方で、今、学習指導要領だけを見ていても現場の縛られ感というのが見えない部分があるというふうに申し上げるのは、これは、現場の責任も部分的にはあるかもしれないので難しいんですけれども、一つは、検定教科書です。
検定教科書には、学習指導要領の項目を複数回、同じ学年の中で重複して掲載していたりとか、学習指導要領を中心に考えると必ずしもそのページをやらなくても構わない部分があるんですけれども、教科書に頼るという形でやっていると、教科書に縛られてしまって、学習指導要領がそこまで書き込んでいないことも学校でやらなければいけないという感覚に陥ってしまっているという問題があり。
もう一つは、間に立つ教育委員会とかが、学習指導要領には、こういうこともできるとか、典型的には道徳の別葉というのがあるんですけれども、それは、作ることもできると書いてあるだけなんですが、ほぼ全ての自治体が作らせているという状態にありますので。
したがって、学習指導要領ではそこまで言っていないことを、検定教科書が丁寧にやっている、そして、教育委員会が丁寧にやらせる。これは全部善意で動いているので非常に難しいんですけれども、そこのところも含めて全体の設計とか全体像をもう少し再構築するという視点がないと、学習指導要領の書き込みだけを考えていても現場の縛り感というのが余り変わらないという可能性も考えられますので、そんなことを考えながら先生の御質問をお聞きしていたというところです。
以上です。
大石 そうですね、学習指導要領の法的確認だったりは本当に必要だと思っています。結果として、必要な法改正があったりとか通知の出し直しがあったり、法制度整備というのも必要かもしれませんけれども、そういうある意味の勘違いといいますか、そこまでそもそもやらなくてもいいのに、やらなければいけないものとして、罰ゲームとして機能しているのではないかなという問題意識がありまして、引き続き、大森参考人と澤田参考人にお伺いします。
お2人とも、2003年の文科省の通知を資料の中に引用されていますよね。この通知によって標準の解釈の実質的変更が、実質的になされてしまったんだよという文脈でお書きになっています。アとイから構成されて、アが、授業時数の実績の管理を厳格化して、併せて、イで、標準を上回る適切な指導確保により、標準の解釈の実質的変更、上回っても下回ってもよいというところが、下回っちゃいけないよという解釈変更として実質的に全国で進んだというふうに資料にも提示されていると思うんですけれども、私も公務員でしたので、この通知というのは通知にすぎないわけで、やらなきゃいけないわけではないんですよね、言ってしまえば。
なのに、この通知が、もう絶対やらなきゃいけないものとして実質的に機能してしまっているのではないかと考えていまして、ただ通知にすぎない上で、これがすごく機能しているのであれば、
見直しが要ると思うんですね。それは、見直しましたという通知まで送って、その通知の実質的効果を通知で打ち消すべきではないかと思うんですけれども、その辺り、2003年の文科省通知に関して、何らかのその見直しに関して、アドバイスというか御意見がありましたら、お願いします。
大森参考人 今の御指摘は、通知そのものの問題と、それから、通知を支えている様々なメカニズムもあるかもしれないというお話であったように思います。
その通知を支えているものということでいいますと、ちょっと3ページを御覧いただけるとありがたいです。ここで、68年から2017まで、小学校、中学校それぞれの標準時数、5年生と中学1年生だけですけれども、全体像を示しております。
この中で、ゴシックの数字があるんですけれども、これが何かと申し上げると、35の倍数が崩れたところなんですね。これは細かな問題に見えるんですけれども、先ほど音楽の事例を出しましたけれども、50時間、図工もそうですよね、50時間になると分かりづらさが出てくるんですね。
それ以前のやはり標準時数というのはよい意味でシンプルなところがございまして、年時数の制度ではあるんですけれども、この35の倍数を使うことによって、もう立ち所に週の時間がイメージできた。そうすると、学校の先生方というのは基本的に真面目な先生方が多いですから、週時間割りが決まりますよね。
それで、現実に統計を取りますと、大体200日、教育は授業日が取れますので、それをもう普通にやっていくと、例えば裁量で入学式から授業をするのはやめようとかしたとしても、35は必ずできる。だから、先生方が小まめに時数をチェックすることも要らないし、教育委員会が管理しなくても、ある意味じゃ、標準時数が要求している世界を現場で自然に実現できた。
しかし、この35の倍数を崩したのも、いろいろなものを入れていこうという本当に御苦労の結果ではあるんですけれども、こうなった結果によって、例えば音楽、倍数を崩してしまうと、カウントをしないとやはりこの50の時数を守るということができなくなるわけですね。
そういう意味でいうと、通知もありますけれども、時数を日々数えながらでなければ標準時数を守れないというのは、制度の問題としては大きなところかなというふうに考えております。
澤田参考人 御質問ありがとうございます。
ただ、やはり、私の専門ではないので、本当にちゃんとお答えすることができないということだけ正直に申し上げたいと思います。
教育行政学とか、そういった方々の御専門の知識をかりたいというところがございます。
その上でですけれども、要するに、現場は、通知はかなり縛りが強いものとして受け止めています。事務連絡と通知は全然違うものとして受け止めていますので、したがって、現場の受け止め方は、通知と来たときには、そんな、やってもやらなくてもいいという感覚で通知を受け止めている自治体とか学校というのは恐らくないのではないかというふうに思っていますので、そう思われているよということと、文科省はそうは言っていないよと言うと思うんですけれども、この間を埋めていただかないと今の問題は解決しないのではないかと、一アドバイザーとして学校に関わっている立場で校長先生としゃべっているときの感覚から申し上げますと、そういうことになるかと思います。
そして、2003年の通知に関しては、やはり学力低下論が非常に大きかったので、あのとき、国会でもあるいは様々な議会でも、学力が落ちて大変じゃないかとたたいた先生方もたくさんおられましたので、点数学力だけで判断しない先生方ももっと増えていただきたいなということが、もう一つここで申し上げたかったことです。
以上です。
大石 ありがとうございます。
お2人のお答えとも、やはり政治的だったり文科省の方での見えない力といいますか、
学校の先生が思考停止したり硬直化している性質だというよりは、もうちょっと違う、見えない力といいますか、
そういう空気によって、通知が厳格に守らないと死ぬものみたいなルールとして機能してしまっているのかなと思いました。
先ほどの35の倍数という話も、滑稽といえば滑稽なんですよね。究極、裁量とは何かというと、いや、これは50に必ずしもしなくていいぞという話があればそうはならないわけですけれども、35の倍数でないことによっていろいろな
混乱を来すというのは、確かに私の子供も、先ほどランドセルのお話もありましたけれども、ランドセルにちゃんと入らないんですよね、時間割りが。何かちょっと、線とかが引いてあって変なんですよね。そういうのがここに、私の時代のシンプルな時間割りではなく、表現に苦労されていて長く伸び過ぎて入らないとか、そういうことがつながっているのだなというふうには思いました。
私は、学習指導要領はもう本当に「守らないと死ぬ」みたいなのを崩したいなと思いまして、それが実は、子供たちの憲法上の教育を受ける権利ですとか個人を尊重される権利というのが守られ、かつ、学校の先生も、人たるに値する生活を営む権利を保障するという労基法の定めを守ったような先生の生き方ができるという両立のためには、この学習指導要領が罰ゲームとして機能しているというのはやはり崩す必要があると考えます。やはり政治的とか又は文科省の力が働いているという御示唆だったとしたら、そこは私なり、立法府の責任というのは大きいんだろうと思っています。
学習指導要領の、いろいろ調べたんですけれども、やはり、法的性質として、絶対守らないといけないものではないはずなんです。かつ、それはすごく大事なことで、元々学習指導要領ができたときというのが1947年なんですけれども、こう書いてあるんですね。
学習指導要領一般編(試案)、
「この書は、学習の指導について述べるのが目的であるが、これまでの教師用書のように、1つの動かすことのできない道を決めて、それを示そうとするような目的で作られたのではない、新しく児童の要求と社会の要求とに応じて生まれた教育課程をどんなふうに生かしていくかを教師自身が自分で研究していく手引として書かれたものである」
というのが、1948年、学習指導要領の起こりなんです。
この起こりには私はすごく意味があると思っていて、これは1948年、いわゆる戦後ですけれども、やはり、憲法の前文にもあります、政府が再び戦争の惨禍を起こすことのないようにということで、どういうメカニズムで戦争が起きたのかということに着目しますと、政府が教育だったり学術、学問に介入してはいけないんだという、そういう線引きのために、憲法もあるし、様々な法律にも反映していった。それは学習指導要領の哲学もそうであります。
それが時代によって少しずつ変えられてきて、法的性質を帯びさせられてきたかのようになっています。
しかし、最高裁判決というのが多分唯一なんですけれども、学テの最高裁判決というのが、北海道の学テの判決がありまして、この判決をめぐってはいろいろな解釈が存在するんですけれども、共通の理解している部分としては、北海道の、昭和51年5月2日の、最高裁大法廷判決なので非常に重いものなのですが、そこで4原則が示されています。
済みません、まとめますね。
4原則だけ言わせてください。
・学習指導要領には法的拘束力を予定していない部分があること、
・細か過ぎるなど法的拘束力を持つべきではない部分があること、
・学習指導要領は地域及び教師の自主的教育の余地を十分残していること、
・学習指導要領は教師に一方的教育内容を強制していないこと
という四つの原則が、最高裁大法廷でも確認されているんですね。
だから、やはり、学習指導要領に従わなかったら死ぬんだ、罰ゲームみたいな世界というのから解放するということが、
これは子供のためにも教師のためにもなると考えています。
時間が来たので、私の演説になって終わってしまいましたが、ありがとうございました。
終わります。
※衆議院、文部科学委員会 会議録より転載。大石あきこ事務所にて編集
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