「命の選別」発言について

 

大石あきこです。
7月16日、れいわ新選組の総会で、れいわ新選組の構成員である大西つねきさんへの除籍処分の提案があり、私は賛成しました。何より、「命の選別」発言により恐怖をあたえた方々や、私や、れいわ新選組に期待していただいた皆様にお詫びします。

この間の経過と、私の考えを書きます。

 

れいわ新選組としての経緯・理由などの説明は、れいわ新選組代表・山本太郎の7月16日の記者会見でご確認ください。(以下、記者会見の動画リンク)

https://www.youtube.com/watch?v=e94gkQqnpXA

 

■私をめぐる経緯

私が大西つねきさんの発言を知ったのは、7月7日の午後、サポーターのかたから「れいわ新選組のメンバーがこんな許せない発言をしている」との連絡がありました。7月3日に大西つねきさんがおこなった講演の発言の一部であり、その問題となった発言の文字おこしは以下です。

 

ーー(大西つねきさん7月3日講演の該当部分文字おこし)ーー

 

「高齢者は死んでいいのか?」高齢者は、高齢者は死ぬ確率は高いし、そもそもね。えっと、その話しましょうか。えっと、どこまでその高齢者を長生きさせるのかというのは、我々真剣に考える必要があると思いますよ。

あのー、なんでかっていうと、その、まぁ今はその介護の分野でも、医療の分野でも、その、これだけその人口の比率が、えー、おかしくなっている状況のなかで、特に上の方の世代があまりにも多くなってる状況で、その高齢者をちょっと、とにかく長生き、死なせちゃいけないと、長生きさせなきゃいけないっていうそういう政策を取っていると、これ多くの、これお金の話じゃなくて、あのー、もちろん医療費とか介護料って金はすごくかかるんでしょうけど、これはこの若者たちの時間の使い方の問題になってきます。

どこまでその高齢者を、まぁちょっとでも長生きさせるために、子どもたちとか若者たちの時間を使うのかっていうことは、あの真剣に議論する必要があると思います。

まぁこういう話多分、政治家は怖くてできないと思うんですよ。まぁ命の選別するのか?

とか、言われるでしょ?

命、選別しないとダメだと思いますよ。あの、ハッキリ言いますけど。

何でかというと、その選択が政治なんですよ。

あのー、選択しないで、みんなにこう、良いこと言っていても、多分それ現実問題として、多分無理なんですよ。

だからそういったことも含めて、あのー、順番として、これ順番として、えっとーその、選択するのであれば、えっと、もちろんその、高齢の方から逝ってもらうしかないです。

ーー(文字おこし掲載ここまで)ーー

 

この発言の動画は、私が知ったころには、すでにたくさんTwitterで拡散されていました。たくさんの方々にれいわ新選組が恐怖・失望を与えていることを重く考え、私は自分のツイートアカウントで、大西つねきさんの発言を批判しました。以下のとおりです。

 

ーー(大石のツイート)ーー2020年7月7日20:23

この大西つねきさんの発言は許されるものではありません。観る前は発言の切り取りかなぁと思ったけど、この動画の時点で言い訳不可ですね。

傲慢さと介護への無知が現れているのだと思います。

みなさまには申し訳ありません。私なりの行動をします。

 

私の見解:

いま、極めて生産力の高い社会です。その生産力が、庶民のために使われていないことが、問題の元凶なのです。

介護労働のやりがい、科学技術を使っての改善といった、介護現場の人たちの理想と離れた「労働力リソースを介護に割くべきでない」論は傲慢、無知というほかありません。

 

党内部で討論は当然として、すでに公開してしまった差別的見解をそのままにする党であってはならないと危機感をもってツイートしました。

リプライ欄の大西つねきさんの擁護論は選別イデオロギーに染められたものが多く、1つ1つ丁寧に説いて脱却しなければいけないと痛感しています。

ーーーー

 

このことについて、大西つねきさんの真意を理解していないというご意見、又は逆に、私の対応は甘い、という両方のご意見を多くのかたからいただきました。

 

■私が経験で学んできたこと

大西つねきさんが言う「高齢の要介護(看護)者の命の選別」について、どうして私が許せなかったのか。私の考えを説明します。

 

私も元々は、高齢化社会を心配する一人でした。働いたり、自分で歩いたり生活できなくなった高齢者を、現役世代(働ける人たち)で支えなくてはいけなくて、税金や時間の負担が重くのしかかってしまうのではないか、と負担しないといけない側の感覚で考えていました。だって、そういうイメージ図が、報道でも、自分の働く役所でもどこでも、あふれていたからです。

それでも、そんな図自体がおかしいんだ!という結論に行きついたのは、やっぱり、この社会の風潮に抗いたいと思ったからです。戦争経験を含めて色んな苦労や人生体験をした人生の先輩であるお年寄りを「社会のお荷物」のように見立てるのがイヤだからです。そして、介護は汚くて嫌な仕事だというという考えが大多数の世の中で、それでも介護の仕事が好きだという人、命の尊厳を大切にしようと奮闘している人に出会ってきたからです。その人たちとの出会いが私の心の中に残って、私を突き動かすからです。

 

出会いの1つは、もう15年以上前、私の中学時代の同級生です。電車でたまたま出会ったとき彼女が「見てや!」とカバンの中から取り出したのが、自分が働いている介護施設を利用するおばあちゃん、おじいちゃんの写真のアルバムでした。この人が〇〇(愛称)で、こんなこと言っててむっちゃおもろいねん、かわいいねん、と電車から降りて別れるまでずっと楽しそうに話していました。中学時代にはお年寄りを大切にする意識が高いとは思えなかった彼女がどうしてなのかな?と介護労働経験のない私は不思議でした。それで「なんで保育士じゃなく介護に行ったん?」と聞いたら「両方の体験に行って、お年寄りのほうがむっちゃおもしろかったから」と言っていました。さらに不思議に思って「オムツとか変えなあかんよね、嫌じゃないの?」と聞いたら「エプロンうんこだらけになるでー。でも慣れたら大丈夫やし、むっちゃかわいいで」と屈託なく言っていました。ただただすごいなぁと、そのときの衝撃は忘れられません。

 

小学生の同級生も介護ヘルパーをしています。会ったときに「賃金が低いのになぜ続けているか」聞いたら「自分にはおばあちゃんがいなかったから、お年寄りの言うことは勉強になるし、自分のおばあちゃんみたいに思える」とのことでした。そう聞いて、自分もそんなふうに人を大切にしたいな、お年寄りになったときに大切にしてもらいたいなと、泣きそうになりました。

 

今、私は「介護・福祉総がかり行動」という介護事業者と従業者などで作るネットワークに参加させてもらっています。そこでも、コロナ禍で大変な中でも、ちゃんとお年寄りを介護させろ、そのための防護服等の体制と、危険手当を行政は補償しろと、行政に申し入れをおこなってきました。

 

このようにして、私自身は元々、高齢者に冷たい視線を持っている自分がいたのですが、子どものときに私と全く同じ目線であどけなく遊んでいた同級生の成長や、今一緒に活動している介護現場の人たちにふれて、私もそのようになりたいと思っていますし、お年寄りの方々1人1人が望むケア、ご家族が望むケア、介護従事者が望むケアが出来るように今の政治を変えたいと強く思っています。

 

また、ケアが必要なのはお年寄りだけではなくて、障がいのある人、子ども、病気になったとき、私たちは人生を通じて様々なケアが必要となります。その全ての現場において、正解はなくても少しでも本人や家族やケア労働者の望む体制が可能になるようにしたいです。そのために、人手不足・サービス不足の根本原因である低賃金を解消するべく、介護・保育の所得倍増を基本政策に、現場の方々とのネットワークや政策提言の活動をしています。

 

もう少し出会いのことで。

「全ての子が普通学級で学べる公教育(インクルーシブ教育)」「少人数学級」の活動を一緒にしているある保護者の息子さんはダウン症をもつA君です。A君は初めて会ったとき、私の腹にパンチを入れてきました。「ちょっと何するん」と苦笑いしたら足を蹴ってきました。A君の顔は冗談ではなく真顔でした。ああ、今日は私のことは気に入らないんだなぁと思いながら、A君の横に並んでとぼとぼ歩いているとA君はごく自然に私の手をつないできました。私は心が明るくなって、一緒に食事に行けました。A君は同じようにして、小学校でも同級生と仲良くしているそうです。その子たちは大人には想像できないように自然にA君と仲良くなり、A君のよだれをふいてあげたり、トイレ介助をしたり、そのクラスは体育で走高跳びなどの授業があっても、うまく飛べた子だけでなく全員に自然に拍手を送るようになったことなど知りました。子どもたちは色んな子どもと接する中で、優しくなれる。それでもA君のお母さんは、「本当にA君が望むことは、A君にしかわからない」と言っています。

 

私の娘は、人前で話すのが苦手ですが、朝礼当番になったときに、娘の代わりに声を出してあげる子役がいたり、娘の同級生もそれを見て色んなものを受け止め吸収しているだろうと思います。

 

そうやって人のお世話をしあうことを楽しめる社会、本人がどう考えているかは究極的にはわからないけど、謙虚に、できるだけ本人の望むことをすくい取れる努力をする社会。誰もがそれを享受できる。そんな社会が悪いものだとは私は到底思えません。私はそんな社会で生きてみたいです。

だから松尾匡さんや様々なかたから、反緊縮の経済理論を学びました。いずれのかたも、「全ての人の尊厳を守る」から逆規定して、何が必要かを考え、反緊縮やMMTを唱えておられる方々です。

労働力リソースはまだまだ増やせる余地があること、また、ケア労働を遠慮したり節約する必要などない、本気を出せば(政権を取れば)、既存の予測の延長線で考える意味がないほどサービスを大きく増やせる、質を高められる可能性を感じました。そういう大転換の中で、ケア労働への価値観もまた変わると考えています。

その考えにいたり、そんな政治運動の最先頭にいると私が感じた、山本太郎さんが代表をするれいわ新選組に参加を希望しました。れいわ新選組の木村英子議員は、施設では自分の尊厳は守れないと飛び出し、家への出入りや外への移動を、道行く誰かの介助を待ちながら生き抜いてこられました。舩後靖彦議員は、ALSを発症後、『命の価値は横一列』という講義を、複数の大学でやってこられました。痛みを知り、生きたいという自分の気持ちを大切に、命がけで闘ってきた人たちと一緒に進み、社会を大きく変えていきたいと思っています。

 

去年2019年12月、山本太郎さんの大阪での屋内講演を聞きに行きました。そのとき、会場からの質問で、「『生きてるだけで価値がある』と山本太郎さんは言うが、自分はどうしてもそう思えない。なぜそう思えるのか。」という質問があがりました。山本太郎さんは「生きてるだけで価値があるとは思えないのはある意味、当たり前だ。だってそういう社会だから。だから『生きてるだけで価値がある』と言うことからしか始まらない。そんな社会が見たいから、そう言っている。」という主旨の回答をしたと記憶しています。私は、ああそうか、「生きてるだけで価値がある」は山本太郎さんの憲法のようなものなのだな、そう思えない自分もあなたも含めて変えていくんだという意思の提案だと思いました。「健康で文化的な最低限度の生活」などは絵空事になってしまった、この腐りきった社会において、それでも「生きてるだけで価値がある」と言い切り、暑苦しくてもクサくても「あなたを幸せにしたいんだ」「生きててくれよ」と叫ぶことからはじめたい。そうして、あなたを不幸にする社会を政治をひっくり返していきたい、それを共感するみんなでそれをやろうよ、ということなんだと思います。

 

■れいわ新選組の研修と総会にて

7月16日の研修では、「身体障がい」のある講師と大西つねきさんの対話がなされました。(本来は講師が精神的なダメージを負う可能性が高い対話形式は企画するべきではないものですが、講師のかたがお考えを冷静に伺いたいと対話を望んだことから、そのような形式にしたものです。)

大西つねきさんは、例の発言は障がい者のかたに向けたものではないとしつつ、講師の「『高齢者、若者、長生き』の定義はなんですか?」という問いかけに「雑に急いでしゃべった」として、明確な定義はされないままでした。講師の「例えば、20代で生涯を終えることの多い障がいもあるが、その人は若者に含めるのか」の問いにも明快な解はなく、判断基準としては「自然の摂理に従う」という抽象的なものでした。そうしたとき、大西つねきさんがあの発言の際、「高齢者のみを想定した」のが主観としては事実だとしても、定義のない抽象的な「自然の摂理に従わない形で、介護・医療リソースを使う高齢者」から「介助がなければ命を失う障がい者」を除外していたとは考えにくいです。「雑に」言ってしまった自分の言葉は、目の前にいる講師や舩後さんに対する「あなたに逝ってもらう」をも意味してしまうことに気づくものではないでしょうか。すでにその前日に、そのように木村さんに指摘されたこともあわせればなおさら。

また、対話では、「そもそも命に“価値”はないと考えている」と講師が言うと、大西さんはそれを肯定し「命に意味はない」と返しましたが、講師に「でもあなたは生きる意味が必要だと冒頭おっしゃいましたね」と矛盾を指摘されると「僕の場合はそうだ」「(僕の場合は)『ただ生きるだけ』はできない」としました。「ただ生きるだけ」の定義はわかりませんでした。

発言を振り返ってどうかという問いには、「アホなのでやっちゃった」「発言のときと考えは変わっていない」「自分の考えは話すときが来る(ここでは話さない)」といった返答がありました。

講師は最後まで冷静に論理的に、大西つねきさんの自己矛盾を指摘して終わりましたが、大西つねきさんがご自身の論理的矛盾の指摘に向き合わずすり抜けていく様子は、講師に対しても不誠実でした。誰でも間違いはしますし、人を傷つけたりもしますが、指摘されたら受け止めて自分を変えていきたいものです。それをしない政治家というのはとても怖いし、すでにたくさんいるのでこれ以上は増える必要はないと強く感じます。

 

一部の大金持ちがますます大金持ちになるルールの下で、命が売買され、命へのあきらめがまん延する社会の中で、「その命」「その尊厳」のために抗いたい人々が、どの歴史にも存在しているし、私の目の前にも存在しています。私もそうです。じゃあ、その存在がある限り、私はその人たちと、突き動かされ続けたい。そんな歴史の波の中で自分の命をまっとうしたい。あなたにも一緒にそうしませんかと誘いたい。

 

大西つねきさんの除籍処分は、大西つねきさん本人に恨みがあったわけでは全くありません。総会当日、大西つねきさんには、おこがましく説得を試み、「死の自己決定権のゆくえ」という本をもらっていただき、別れ際に握手を求めました。大西つねきさんは全て応じてくれました。

ただ、私が出会ってきた、命の選別と抗う人の存在に、私が真摯に向き合う方法として、「私は命の選別思想と決別する」という意思として、除籍に賛成しました。研修の機会がありながら、同じように選別思想と決別することを選ばなかった大西さんのことは残念です。その翌日の大西つねきさんの記者会見も、到底、受け入れられるものではありません。

今後も、大西つねきさんが再生産しようとしている選別思想や、主観的で誤った労働リソースの観念に対抗します。また、広範な、命の選別に抗う人、抗いたい人と行動を共にします。

 

 

※以下、上記の死の自己決定権のゆくえ」という本の一部を紹介します。この本は、ある方から「れいわ新選組の総会前に読んでほしい」と頂き、読み進めています。人の命に勝手な線引きをしてはならない事例が載っています。人は無知であり、傲慢になってはならないと、改めて思います。みなさんにも読んでいただければと思いました。

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